ペンを額に

霜月のブログ。当ブログは記事に大いに作品のネタバレを含みます。合わない方はバックしてください。

PSYCHO-PASSサイコパス 最終回 感想

最終話。ネタバレ有り。

凄くマキシマが幸せそうで嬉しかった。

やっと安らぎを手に入れたような。
誰かに見つけてもらったような。誰かを見つけたような。
やっと捕まる。やっと心が満たされる。やっと「生きた。」
命の輝き。命の限界。命の熱さ。
胸いっぱいに息をして、汗が流れ、血が流れ、全力で走り、疲れ、朦朧として、数分後には自分を殺す男がやってくる。機械仕掛けの裁きじゃない、生身の人間の生の感情によって。自分は死に、その男のなかで生きる。



昔は人それぞれの心の中に善と悪の線引きがあった。人によって判断基準は曖昧であり、そのため公平を喫するならば多くの判断基準を統合し、平均を出さなくてはいけない。
シビュラが普及してから、善悪の判断は全て機械(他人)任せ。
その機械(他人)からも判断を放り出されたマキシマ。



機械から放り出されたマキシマは善悪の判断基準を自分自身で定めることを余儀なくされた。
善とはなにか。悪とはなにか。シビュラとは。シビュラを信じる人間とは。
自分が間違いなのか。それともシビュラが間違いなのか。
はたまたどちらも間違いで、どちらも正しいのか。
良い行いをしても、悪い行いをしても、褒めてくれる数値も叱ってくれる数値もでない。
他人は自分の数値しか見ない。
そんな変わらない数値に何の価値があるというのか。
価値とはなんだ。
価値とは人の行いをみて、人の行いに対して、人が決める善悪の裁き(判断)ではないのか。
裁きとはなんだ。
裁きとは人のなかの判断基準によって行われる、身勝手な感情による他者への位置づけ、処遇。


感情のある裁きは悪く、感情のない裁きも悪い。
感情のある裁きは良く、感情のない裁きも良い。
裁きに大切なものは何か。感情か。全体の意見か。個人の意見か。公平さか。規則か。
人が人を罰するとき、裁きと人を切り離してはならない。





シビュラシステムというよく分からないが、社会を網羅し、信頼され、人を判断するものから自分だけ無視され続けたマキシマ。マキシマがシビュラシステムをどーのこーのいって、事件発生させてるけどホントは自分のやっていることなんてどうでもよく、ただ寂しく気を引きたいだけ。本当の意味での「自分自身」のみを見る存在を求めていた。


自分足りうる、自身の存在。
替えの利かない他者の存在。



機械(機械を通してしか自分をみない人間も然り)と人間の対話で得られずにいたもの。

人間が人間を理解するために目を見て、話をして、触ってというような原始的な方法によって得られる繋がり、絆、信頼、相互認識。

機械(シビュラ)をかなぐり捨てた人間にしかマキシマは反応しない。




コウガミはマキシマに対してある種の愛情をもっていた。
それがあの実弾に繋がったのだと思う。
マキシマにとって、今まで自分を無視してきたシビュラのドミネーターで捕えられ、裁かれる(シビュラの一部として摂り入れられる)ほど屈辱的なことはないからだ。


全編を通してマキシマは普通の人だなーと思った。




あかねを踏んずけ、トリガーを引いたときまで、マキシマはあかねのことをシビュラの手先だと思っていたが、あかねのなかでの確固たる理念に基づいてマキシマを見つめ、逮捕しようとしていることに気がつき、尊いものとして殺さなかったのだと思う。



マキシマの最期、太陽と月、茜と藍の演出がとても綺麗でした。





<コウガミ=狡噛>
<マキシマ=槙島>
<あかね=朱>
アニメの音で見てたから漢字知らなかった。全員漢字だったんだね。日本だもんね。
でも100年後だし、漢字じゃないのかもって(笑)