ペンを額に

霜月のブログ。当ブログは記事に大いに作品のネタバレを含みます。合わない方はバックしてください。

月の光

星新一さんの著作のなかに「月の光」っていうのがあって。

ある医者が「人間は言葉によって育んできた愛情を言葉によって失くしている」といって、生まれたときから言葉を一切使わずにある少女を溢れんばかりの愛情をもって育てていた。愛に純粋で無垢、そして強固な絆で結ばれた少女とその医者は言葉を一切交わすことなく、ただ愛情のみで繋がる深い関係だった。
ある時、医者が交通事故に会い重体、家に帰れなくなる。執事は少女のために食事を用意するも、深い愛情とともに主人の手から直接ものを食べていた少女にとって、それは食べ物ではなかった。執事が事情を説明するも、主人以外の人間に少女は怯えるばかり。言葉もわからず、栄養も摂取せず、どんどん少女は衰弱してゆく。少女は主人の帰りを待つ。いつまでもいつまでも。しかし、医者は亡くなった。そして同時、少女も亡くなっていた。



とまあこんな話ですが。

性愛に敏感なルナンと重なる部分があるな〜と思って。


ルナンにとって愛しい相手が死ぬとは、どのようなものなのか。

ココロの状態。カラダの状態。


ルナンにとって、体の飢餓は心の飢餓だと考える。でも心が満たされれば体も満たされる訳じゃない。逆もまた然り(なのかな?結構カラダが満たされればココロは平穏になるんだよね、ルナンって笑)




私はルナンは愛情深い生き物だと思う。受け入れられるだけの愛を受けきり、相手に与えられるだけ与える。深い慈しみが、体を伴うことで淫靡だと捉えられてしまうのは、しょうがないことだけど。


ルナンはすでに「言葉」を獲得しているわけだから、上のように愛しい相手が死んでも事情は把握できる。でも事情が把握できるからといって、哀しみがなくなるとか、ルナンが死なないとは言い切れない。

逆に上の少女は「主人が帰ってこない」という事実を哀しむことはあっても「主人が死んだ」という現実を知り絶望に打ちひしがれることはない。

しかし、言葉を知っていれば、少女が死ぬことはなかっただろう。
純粋で妄信的な愛情は儚く壊れやすいのかもしれない。


果たして「愛情」とはなんであったのだろうか。